不妊手術の禁止を違憲として訴訟提起

 「わたしの体は母体じゃない」訴訟と称して、現在の「母体保護法」による不妊手術禁止を違憲と訴える訴訟が提起されたとのこと。

www.call4.jp

 

原告の一人が公開している陳述書はこちら。

note.com

 

 

 自分の希望のみで不妊手術を受けることが法律で禁じられているのはおかしい、という訴訟。遠からずこういうは動きは出てくるだろうなと思っていたけれど、案の定。

 「母体保護法」が家父長制的かつ国家主義的な発想を背景にしていて、すでに時代に合っていないのはその通りだろう。自己決定の尊重という原則からすると、自分の意思で手術を受けるのは本人の自由であり権利だ。しかも、現在の日本の法律は戸籍変更を望むトランスジェンダーに対して「生殖機能を欠くこと」つまり不妊手術を要求している(ただしこれは昨年10月の最高裁判決で「違憲」とされた)ので、一方では望む人の不妊手術を禁止し、一方では望まない人に不妊手術を強いるという人権侵害になっている。

 だから原則としては、この原告たちの主張は正当だと思う。本人の意思に基づく不妊手術が法律で禁止されている現状はおかしい。

 ただ、この話に限らず、「本人の意思で」「医療技術を用いて」「自己の身体を改変する」こと全般として考えてみると、自己決定原則で推し進めていけばいろいろとトラブルが出てくるのは避けられないとも思う。すぐに思いつくところでは、本人が「後悔」したらどうするのか、予期せぬ事故が起きたらどうするのか、等々。不妊手術は手術の中では比較的リスクは低そうだが、もっとリスクの高い手術の場合はどうなるか。

 海外で「身長を伸ばす手術」を受けた結果、失敗して重い障害が残った人の体験談を見たことがある。その人はその結果もまさに自己責任として引き受けていたようで、愚行を含む自由の原則を貫けばそれでいいとは言える。私も個人的にはパターナリズムへの警戒の方が強いので、たまにそういう人がいてもいいじゃないか、しかたがない、と思うところはある。しかし、現実の社会にはどこまでが自己決定か曖昧な状況が山のように存在し、パターナリズムの単純な否定は殺伐とした「弱者」の無視につながりかねないということもわかる。

 その一つの極として、本人の意思による「安楽死」をめぐる議論があることも思い出さないわけにいかない。私の中のリベラリストはこの不妊手術のような自己身体に対する自由を基本的に支持するのだが、その延長上に「安楽死」の問題が見えた時、明確に支持とは言いにくいためらいが生じる。(以前は明確に反対だったが、今はそうではなくなった。)身体改変と「後悔」すらできない死との間には確かに断絶があるが、自己身体に対する本人の自由、決定権という点では無関係でもない。自己決定の尊重を原則としつつ、ではいわゆる自己決定が常にそう呼べるような環境でなされているのか、という疑問が、たとえば日本で積極的安楽死が合法化された状況を想像すると浮かんでくる。

 

 また別の現実的な問題として、どこまでを医療保険で補助するのかという線引きの問題がある。医療というのは本来は望まずして負った病気や怪我に対応するためのものなので、「より望ましい身体に変えたい」という希望を叶えるところまでは想定されていない。したがって美容目的の整形手術などは今も保険適用外だ。

 これについてはいわゆる性別適合医療をめぐって以前から議論があった。ずっと昔に読んだ『トランスジェンダリズム宣言』(2003年)には、「美容整形にも保険適用を」というすいぶん過激な主張があったのを思い出す。その後もネット上などでは「じゃあおばさんのシミ取りに保険が使われて納得できるのか」といったやりとりが飛び交っていて、いろいろと考えさせられた。

 とはいえ単なる思考実験ではなく現実としては、日本の医療保険制度はそれでなくとも支出削減を迫られているので、適用範囲が狭くなることはあっても広くなることは考えにくいだろう。ただ、トランスジェンダーにしても自ら不妊手術を望む人にしても人口の中では少数で大勢に影響しないため、運動しだいでは案外すんなり適用される可能性もある。しかしそのためには、現状の性別適合医療の一部がそうであるように、便宜的にでも何らかの病名をつけ、その治療という名目が必要になる。

 この訴訟で原告になっている人たちの中には明確に「苦痛」を語っている人もいるので、その場合はそれを病気とし、その治療として不妊手術が処方されるという形にすれば、保険医療の枠内に収まるだろうか。指定された病院の精神科で順番待ちをし、不妊手術を望む背景を根掘り葉掘り聞かれた末に診断書をもらう、という手間をかけても保険適用を望む人はそのルートで、全額自己負担でもいいから手間を省きたいという人は別のルートで、という選択肢が生まれるのだろうか。それは性別適合医療ですでにそうなっている状況だ。

 ともかく、本人の望む不妊手術も禁止する現在の法律がおかしい、そこまでは原告たちの主張が全く正当だ。その上で、「自己決定」とは、「医療」の範囲とは、といった他のさまざまな問題にも通じる要素がこの訴訟にはある。これをきっかけにどんな議論が進むのか、とても興味がある。

農業の人手不足はやはり機械化で解決していくべきでは

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASPC565HBPC5UTIL026.html?pn=5

この件、「給料を上げて国内労働者を雇え」という意見が多く、一見正論に見えるものの、いろいろ考えるとそれでもだめなんじゃないかと私は思う。まず記事で語られているように、現状として国内労働者はこういう仕事をやりたがらないし、来ても定着しない。
1人あたり500万収入があるなら300万くらい給料出せるだろうと言っている人がいるが、国内労働者は同じ300万ならおそらく他の仕事を選ぶ。年収1000万くらい出せばやりたがる人もいるかもしれないが、ホウレンソウの収穫作業にそれだけの人件費を使った場合、ホウレンソウの末端価格はいくらになるのだろうか。それでも他に全く選択肢がなければ消費者は買うしかないが、あいにく他の食品とか輸入品とかの選択肢が存在してしまうので、国産ホウレンソウは単に売れなくなって農家が潰れて終わる。(そこで補助金等をつぎ込んで「国策」として国内農業を保護するというのは実際に行われてもきた一つの政策ではあるが、今の「技能実習生」がやっている仕事に年収1000万(半分の500万としても)を保障するというようなことはどう逆立ちしても無理だろう。)
国内労働者がやりたがらない仕事にベトナムなどの他国から来てくれるのは、今は国家間の経済格差が大きく、日本で「技能実習生」をやって得られる(と騙される)収入が出身地では「年収1000万」くらいの価値を持っていたりするからだ。この制度が問題だらけで人権侵害の温床だということはしばしば話題になっている通りで、廃止して労働者として受け入れろという意見は正しいと思う。ただしそれも、経済格差を利用して交渉力の弱い外国人労働者を安く使うという方向なのは変わらない。それでも来たいという人たちがいる以上双方の利益になるとも言えるのだが、国内労働者のやりたくない重労働を外国人にやらせる、それによって重労働が低賃金に抑えられ、物価も抑えられるが国内労働者の賃金も上がらない、という方向をそれでよしとすべきなのかは悩ましい。「給料を上げて国内労働者を雇え」という人はよしとしないのだろう。しかしそれならどうするかというところで、上に書いたような、現在の日本の国内労働者は多少給料を上げたところでこのような仕事には来ない、という事実が横たわる。
まず直視しないといけないのは、私たち自身を含めほとんどの労働者が、毎日ひたすらホウレンソウの収穫、調整をするような仕事を積極的にはやりたくないのだということ。「給料を上げて人を雇え」と言っている人たちも、では自分が年300万、あるいはたとえ500万でも農家に雇われてホウレンソウの収穫をしたいかと問われたらどうだろう。私はあまりやりたいとは思わない。
私は畑仕事をやっていたこともあり、それはかなり楽しいことだったのだが、そういう趣味的にやる農作業と雇われて機械的にホウレンソウの収穫をする作業を混同はしない。自分の小さな畑を自分の思うように耕す自営有機農家などは確かにやりがいのある魅力的な仕事かもしれない(それでも実際にやりたがる人は少ないのだが)。しかし圧倒的多数の食料とその価格を支えているのはこの記事のような大産地の慣行農家とそこに雇われて「みんながやりたがらない」単純(と見なされる)労働をしている人々だ。

そこでいろいろ考えると、私が現時点で一番ましだと思う方向は結局、機械化になる。外国人2人分を国内から雇え、ではなく、2人減っても困らないようにしろ。この記事ではホウレンソウの収穫、調整がすべて手作業なので人を雇わないといけないと言っているが、そういう作業をできる機械が全く開発されていないわけでもない。まだ技術が未熟だというだけだ。そこに投資をし技術を高めて、将来的に労働者が減っても同じ量の出荷ができるようにすればいい。

https://www.google.com.hk/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.alic.go.jp/content/000144928.pdf&ved=2ahUKEwiLmpm164L0AhWGr1YBHWqmDkQQFnoECBcQAQ&usg=AOvVaw2076XWTKM8xjTVrL4apnxZ

日本の国内労働者は少子化でこれからも減り続けるし、経済格差で呼び寄せている外国人労働者はその格差が縮まれば来てくれなくなるだろう。実際にそういう理由で「技能実習生」の出身国は次々と移り変わってきた。
そして何より、社会に必要だがほとんどの人間がやりたがらない重労働というものがあり、

1. 金で縛って貧しい人間にやらせる
2. 機械化してその労働自体をなくす

という選択肢がある時、1を選び続けることが合理的とも倫理的とも私には思えない。

蘇る「東西対立」の中で

いろいろぼかして書くけれども、最近、かつての東西対立に振り回されて右往左往していた知識人たちの感覚というのが内在的にわかるようになってきた気がしてつらい。こんなものわかるようになりたくなかった。私は物心ついた頃にはベルリンの壁が崩壊しソ連もなくなってしまった世代で、強力な二大陣営のどちらにつくのか事あるごとに踏み絵を迫られるというような感覚は自分ではほとんど経験していない。大学に入って運動などに関わってからも、基本的には「米帝」独り勝ちの状況の中で、米国(とそれに追従する日本)批判を繰り返していればよかった。もっと上の世代の人なら「反帝反スタ」が切実なスローガンだったろうが、それを知識として知ってはいても、私にとって「スタ」の存在感は実感としては無きに等しかった。日本共産党にぶん殴られた経験もないし、実際に出会う共産党員といえば弱小政党を懸命に支える生真面目なご老人といった方々ばかりで、失礼ながら脅威と感じるには弱すぎた。圧倒的な力の差があれば、両者どちらも支持できないとしても、とりあえず「弱い者いじめはやめろ」という正義が成り立つ。とにかくアメリカが悪い、と言っておけばよかったのもそういうことだ。
そういう感じで過去二十年ほど、二大陣営対立の時代はもう終わったのだと漠然と信じつつ生きてきたのだが、ここへ来てまたぞろ「東西対立」が蘇るのを見る破目になるとは。歴史が単純に繰り返すわけはないだろうが、では私たちはこの「いつか見たような風景」の中で、どうすれば前よりも賢明に振る舞っていくことができるのだろう。

コメントにお返事を書きました

前回の記事について、こちらのコメントにお返事を書きました

https://anond.hatelabo.jp/20210308122131


元記事を書いた者です。丁寧なコメントをありがとう。

私は確かにイギリスの事情とか世論の雰囲気とかを直接体験していないので、自分の日本での経験をもとにイシグロ発言を批判してあちこちずれていたかもしれない。

トランプ当選がリベラルにとって「驚き」だったというのはそうだったのだろう。その実感はよくわからないけれど。
日本のリベラル(というよりここは左翼)の一人として言うと、なにしろ「勝利ムード」なんて味わった記憶がほとんどないんだよね。「ネットで見た印象より自民党の支持率が高い、なんで!?」と驚く左翼の人もいるのかもしれないけど、少なくとも私はそういう驚き方をしたことはない。自民党の支持率が高い、そうかやっぱりね。自分の投票した左派候補が僅差で選挙区で勝った、え、なんで!?という感じ。
社会党とかが強かった時代を知っている世代はまた違うかもしれないけど、ある程度若い世代で左翼をやってると、とにかく負けるのが常態という感覚がしみついている。「われわれは負け続けるが、それでも闘うことに意味があるのだ」みたいなことを事あるごとに聞かされて育ってきた感じ。それで、要は期待値がかなり低くなっている。少なくとも私個人は。

だから非リベラル的な意見や表現に出会っても、それで非常に不愉快になるとかかっとするとか、そういう感情はあまり湧いてこない。単に性格もあるけれど、それが当たり前、そっちが世間の主流、という慣れ、諦めがあるような気がする。これは「自分は頑迷で怒りっぽいリベラルとは違うぞ」というようなことを言いたいわけではなく、単に事実として。だから非リベラルの人の話に淡々と耳を傾けることならできそうだし、これまでも機会があればしてきたつもり。
実際、記事に書いたように普通に生活していれば周囲にはいくらでも左翼やリベラルでない人がいるわけで、日常では当然かれらと人間としてつきあう。日本社会はそもそも政治的な話をする機会が少ないけれど、そういう人が非リベラル的な意見を伝えてきたとして、私はもちろん隣人として耳を傾けると思う。

特に私は育った家族が保守やノンポリばかりで、自分も十代の半ばまではその価値観の中にいたから、非リベラルの感じ方考え方はかなり内在的にわかる気がしている。これももちろん、「お前らのことなんかわかってるぞ」と上に立ちたいわけではなく、単に事実として。
ただこの経験は、私の中に保守への理解だけでなく、たしかに一種の被害者意識を植え付けたかもしれない。なにしろ、ちょっと左翼っぽい活動に参加しはじめたら、「お前は過激派に洗脳されている」、「そのうち山奥に埋められるぞ」(あさま山荘事件のことね)、「警察に通報するぞ」等々と親に罵倒され泣きわめかれた。その後も長年、「お前は洗脳されている、そんなものに関わると人生台無し」とからんでくる親に、「私はあなたの思想を尊重して干渉しませんから、あなたもどうか干渉しないでください」とリベラルの原則を盾に応対し続けた。だから考えの違う相手への忍耐力はそこそこついたかもしれないが、残念ながら、その分保守や非リベラルのイメージがどうしても悪くなり、被害者意識的なものが刷り込まれてしまった感は否めない。

まあそれと、有名な在特会などが「虐殺せよ」だのと街頭で叫ぶのを何度も目の当たりにして、これを放置はなあ……とやはり考えさせられたよね。私は実は上に書いたように感情麻痺気味なところがあって、そこまで強い恐怖や怒りを感じたわけではないのだけれど、寝込むくらいのショックを受ける人も当然出る。あれでヘイトスピーチ規制やむなし、と確信した人は多かったと思う。私はそれでもあいまいに慎重派で、ちらほらそういう人もいるのだけれど、流れとしては法規制論はかれら「行動保守」が自ら火をつけた面があると思う。

相手をモンスター化するな、というのはたしかに大切なこと。相手がたとえ桜井誠であっても、もちろん人権を保障された人間として向き合うべきだ。
このへんも、個人的には「桜井相手なら何を言ってもいい」みたいなカウンター側の暴言を身辺で諌めたり、なるべく意識してきたつもりではいる。もちろん私だけではなく、そういう人はカウンターに参加した左翼やリベラルの中にたくさんいた。 
一方でカウンター側の一部に「お前らのそれも差別だろう」と言われてもしかたのない言動があったのも事実。それは否定しない。でも保守や非リベラルがそうであるように、左翼もリベラルもカウンター参加者も全く一枚岩ではないので……参加者全員連帯責任のように見られるとちょっときつい。

「愛国アレルギー」については、日本国内で外国人の権利擁護運動をする際にはかれらがもつ愛国心ナショナリズムも含めて尊重すべき場面も多く、「愛国」=悪!と単純に攻撃できるような機会は私の周りには現実的にない。
ただし私個人は基本的に反ナショナリストなので、私が「愛国」的なものの共有を求められる場面があればなるべく拒否したいと思っている。これはまさに思想信条の自由の問題で、リベラルとしても簡単に譲っていいところではない。
具体的には、学校での日の丸君が代の強制などに対して、見たくない、歌いたくない人の「強制されない自由」をどう保障していくかということ。現状、生徒ならまだしも教員だと拒否が処分につながったりして、この自由はかなり圧迫されているというしかない。これは国家が個人の行動を直接規制する話だから左翼案件というよりかなりリベラリズム案件だと思うのだけれど、何だか古くさい左翼運動のように見られるのは残念だと思う。

そういう国家による直接の規制に比べると、民間の芸術家が「愛国」的な作品を作るかどうかとかは個人的にはそこまで気にならない。それが教科書に載るとかだとまた少し話が変わるかもしれないけど。
挙げられていたHINOMARUの件についても当時からほとんど興味がなく、特に発言などした覚えもない。後でざっと経緯は知ったが、曲を廃盤にしろとか歌うなとかいう主張は(私のリベラルの立場からして)支持できないかな、でもそれを主張するのもそれはそれで表現の自由だよな、といったところ。謝り方がどうだとかそのへんはもう知らん。制止しなかったならお前も同じだ、とか言う人もいるのかもしれないが、さすがにそれは勘弁してほしい。左翼も別に集合知性体ではないので。


急ぎ足で書いたけれど、ひとまずコメントの大きな方向としての、思想は違っても人間同士として理解の余地があるよね、というところには基本的に同意です。それはお互いに、どんな立場であれそうですよね。とにかく丁寧に応答していただきありがとうございました。

イシグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想

このカズオ・イシグロのインタビューが注目を浴びていた。

"カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ"
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b

まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、

https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php

61.1% 左派, 72.2% 自由主義者

という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。

そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。

まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論フェイクニュース似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。

しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。

"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。

しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。

リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"

ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。

イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論ヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。

"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529

私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。

また、いくつかのコメントが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論フェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。

ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。

"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html

イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。

結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界を世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。
その上で、あくまでもそういうインテリ業界や文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的に同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想や感情を表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラルの原則からしても、非リベラルの人の表現の自由を制限するのは筋が通らない。ただしその表現を批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。

しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界はリベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別と偏見にあふれているものが普通だ。
たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本ではいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業は否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成の視線の方である。現在の目で見て、こういう川端康成の視線が女性蔑視的要素を含まないということは難しい。
また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身の体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニストの批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。
私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家の視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティの視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しかし古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの、話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観を攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのりの作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法で保守派の戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。
イシグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本の書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客の歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。
「小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉が移民であり民族的マイノリティであるイシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会の成熟を示すものでもあるだろう。
しかしあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル的価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラルの発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル的社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である。

ところで、私は川端康成太宰治の作品に差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版にしろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成の文章の美しさも、太宰治の小説の面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。
「キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品を全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想の公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。
この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術を総体として愛するならば、自分の嫌いな作品、理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在の視点で川端康成太宰治の表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法は作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。
ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかったかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点からの批判も作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成を教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。

最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実や科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。
しかし人間の感情というものが社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在の世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルにももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。
まず現状認識が違い、芸術の世界がリベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に、文学や芸術の世界でまで政策議論の場合のように感情を排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学がトランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶるものは文学や芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実の生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術に表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情や思想の避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学的エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分の人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。
また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的、民族的、性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情を表現することを私は一律に非難したくない。被差別者の表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識の問題になるが、今の社会でマイノリティがマジョリティを攻撃するような表現を公然と行えば、より危険にさらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数のマイノリティはそんなことをせず、むしろ感情の抑制に非常に長けている。
BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制の怨恨を復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカの白人社会はすでに何度廃墟になっているかわからないということだ。しかし現実はそうなっていない。現実のマイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情を表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代が幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。

ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。

そもそも銅像を建てるのが悪趣味

「現代の価値観で過去を裁くな」論のおかしさ〜BLM運動の「銅像破壊」を巡って
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75419?page=1&imp=0

この銅像問題で私が思うのは、そもそも「銅像を建てる」という行為がきわめて悪趣味なんであって、引き倒されるのが嫌なら最初から建てるな、ということに尽きる。だいたい死後に銅像を建てられて喜ぶ偉人がいるとも思えないし、喜ぶようなら偉人としてどうなのか。死人に口なしをいいことに後世の人間が勝手にやっているだけ。どうせ文字通り偶像なんだし、倒して気が済むならいくらでも倒せばいいと思う。
ただ例外として、主題はともかく造形として美術的な価値が高いというような場合は、むやみに壊すのは美術史上の損失になるかもしれない。そういうのは美術館や博物館の中にお引き取り願って、名実ともに歴史上の存在になってもらえばいい。広場や道端に居座って、そいつがまだ歴史になりきっていないことを主張しているからこそ倒されるのだ。

何かしないと落ち着かない人へのケア

"陸上にいる人(バイスタンダー)は、最善の背浮きができるようにしてあげなければなりません。バイスタンダーは「ういてまて」と大きな声で溺者を励まします。そして119番通報をします。それだけでいいのです。でも、バイスタンダーにはそれでも「どうしよう」とパニック状態が続くので、水難学会では「浮くものを探して、投げて渡そう」という(活躍?の)場を与えました。それが、ペットボトルなどの浮くものを投げ渡すという実技につながりました。

 バイスタンダーに役割が増えるほど、バイスタンダーは飛び込まなくてすむ。だから、ペットボトルを探して投げるという行為は、「陸上にいるバイスタンダーが水に飛び込んでしまわないよう」にするという、オプションなのです。"

溺者からのお願い ペットボトルに水入れないでください クーラーボックス投げないでください
https://news.yahoo.co.jp/byline/saitohidetoshi/20200821-00194373/


これはなかなか深いなあ。溺れている人本人のためというより、何かしなければ落ち着かない状態になっている周りの人のケアとしての「浮くものを投げ入れる」というオプション。

砂糖玉に薬効はないけれど害もないので、「他人にやたら薬を飲ませたがる人」に使ってもらって本物の変な薬を使わせないようにするにはいいんじゃない?とホメオパシーを評価したナイチンゲールを思い出す。