「女も男もやめられる」社会を

あるFtXの人のトランスの経緯。自分の経験に近い部分もあり、いろいろと共感したり懐かしく思ったりして読めた。

FtXの私がトランスを始めた経緯と、思ったこと
https://note.com/neutralde5/n/nfd66507f2aa5

ただ、筆者も太字で強調しているこの一行には、「ああ……」と溜め息が漏れる。これはきつい。

"今の日本では女をやめたいなら男になるしかない"

この人はそう割り切った上で今の選択をして、結果にも納得しているようなのでそれはそれでいいと思う。しかし私から見ると、もともとX自認で「男になりたい」とそこまで強く望んでいたわけでもない人がこう割り切らなければいけない社会、そして実際にかなりの労力や費用をかけて戸籍変更まで考えなければいけない社会はやはりおかしい。
Xジェンダー(呼び方は他にもいろいろあるが、とりあえず、「男でも女でもない」状態の総称として使う)がXジェンダーのままで生きやすい社会にしていかなければいけないのだ。女から男、または男から女へと性別を変えることがなるべく容易に、なるべく安全にできるようにすることと同時に、しかしそれとはまた別の課題として、女でも男でもなく存在できる可能性というものを社会の中に増やしていかなければならない。
おそらく日本に限らず、「女でなければ男」「男でなければ女」という性別の二元論はまだまだ圧倒的多数の社会で圧倒的主流の位置にある。「女でも男でもない」存在というのはほとんどの場面で想定すらされていない。外見的に男か女かわかりにくい人がいれば、まさにそれだけで奇異の目を向けられ、なんとかどちらかに同定しようとする詮索にさらされる。

私は遠い理想としては、「男でも女でもない」「性別のない」状態こそが人間の常態となり、「性別」とはそれを使って特別なコミュニケーションをしたい時だけ、選んで身に着ける衣装のようなものになればいいと思っている。理想であり夢ではあるが、本気でそう思っている。(これを言うと、誰もが同じような格好をしてジェンダー表現を禁止された画一的で平板な社会、を想像する人が多そうなので断っておく。私が理想としているのはそういう社会では全くなく、過去にはジェンダー表現とされてきたものが完全に個人の好みの表現へと意味を変えた結果、そこから身体的な性別や、さらには「性自認」すら読み取ることが不可能な社会、だ。フリルだらけのスカートをはいているからといって、その人が身体的に女性であるとも、女性を自認しているとも解釈されない。それが一般常識となっている社会、である。伝わるだろうか。)
しかしそんな状態が自分の生きているうちはもちろん、百年や二百年のうちに訪れるとも思っていない。人類が存在する間に実現するかどうかも定かではなく、現実の未来がそれとは全く違う方向に進み、そういう夢が見られたことさえ忘れられることも十分ありうる。
しかし、社会全体が変わらなくても、そういう理想を少しだけ先取りしたような場を今の社会の片隅に作ることはできる。私の決して広くない経験の中でも、クィアコミュニティがそういう場を意識的に作ろうとし、ある程度成功している例はあった。
また、実現が定かではない理想だからといって、それを今ここで語ってはいけないという筋合いはないだろう。理想は理想として何度でも言えばいいのだ。「女をやめたいなら男になるしかない」この社会はおかしい、「女も男もやめられる」社会を私は求めていきたい、と。

「オルタナティブな場」からの告発に触れて

みわよしこさんの文章。的確でバランスのとれた見方だと思った。

https://note.com/3rings/n/n73b34d53439b

"人が集まれば必ず、この種の問題は起こる可能性がある"

全く、これに尽きるだろう。

さらに言えば、暴力や搾取について一般社会よりも敏感な人が集まりやすかったり、そういうことを批判的に見るような雰囲気が「オルタナティブな場」にあったりするからこそ、告発が起きる機会も増える、という見方もできる。それは決して悪いことではない。
もちろん暴力や搾取自体は悪いのだが、それが被害者にすらそれとして認識されない状況(そういうこともよくある)や、全く表に出てこない状況よりはましなのだ。女性の地位が高い国の方がデータ上は性暴力の発生率が高くなるというのに似ている。被害者が被害を自覚でき、告発できるような条件が最低限あってこそ、「事件」は発生する。

筆者は、

違和感はありますが、「べてるの家」の歩みと実績は、8割方は尊敬しています

と書いている。
私の「べてるの家」に対する感情もこれに近い。といっても、私は本や映像を通して知っただけで、現地を訪れたこともなく、関係者と直接の面識もないのだが。
ただ、筆者の違和感が「言語化することは困難」とされているのに対し、私の違和感はある程度言語化できるようにも思う。たとえば、家族的共同体の匂いがすること。またそれに伴って、「家族」の価値や主流の性規範のようなものがあまり批判なく共有されているように見えること、など。それは私のように強固な反家族主義者で、性の捉え方においてマジョリティではない人間にとってはかなりストレスになるものだ。
しかしそれを「べてるの家」に言ってもないものねだりだろうとも思ってきた。いわば「普通の家族」の安定性のようなものが、苛酷な経験に疲れた人にとって寄り所になることはあるだろう。そういう人が現実として多いのなら、それを否定することはできない。
人間の多様性を認めればこそ、あらゆる人間にとって違和感のない場というものはありえない。「べてるの家」は確かにさまざまな人を排除してきただろうが、うまくなじめた人にとっては必要な場だった。それは否定できない。自分が行って住みたいとは思えないが、その試みには外から敬意を持つ。「べてるの家」は私から見てもそういう場だった。
しかし、この文章でも指摘されているように、時代が変わり組織が拡大していけば、気心の知れた「家族的」な関係で続けていくことに無理が出てくる、というのもまた普遍的な問題だと思う。私も筆者と同じく、「べてるの家」がこれを機にその問題を見直し、より多くの人にとって開かれた集団になっていくことを期待している。

『この世界の片隅に』の太極旗シーン

この作品については賛否どちらの立場からもあれこれ言い尽くされていて自分で何か言う気が失せるのだが、このシンプルな指摘については「まあそうだよね」と思ったのでメモ。(ちなみに私はマンガは読んだがアニメはまだ見ていない。)

この世界の片隅に』の太極旗シーンに感じる違和感を整理してみた
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/08/10/125958

"そもそも(広島にも呉にもたくさんいたはずの)朝鮮人など影も形も現れないこの作品で、旗ひとつを見ただけで、朝鮮人を暴力で従え痛めつけてきた「この国の正体」を悟るというのが唐突すぎる。"

"日本人が植民地の朝鮮半島でどんな酷いことをしていたか、おそらくすずさんは何も知らないはずなのに、そのすずさんから「暴力で従え取ったいうことかね。だから暴力に屈せんといかんのかね。」というセリフがなぜ出てくるのか、理解に苦しみました。"(ツイッターからの引用)

この作品の太極旗シーンが「取って付けたようだった」というのは私もそうとしか思えない。作者が持つに至った日本の加害性への認識を、強引に主人公に語らせてしまったがゆえの破綻だ。
この作品は基本的に、当時の庶民(それもかなりナイーヴな人物)の、戦争の帰結も、その背後にある構造も「見えていない」視点に寄り添って描かれている。当然、日本の植民地支配の現実も、その一端に連なっている自身の加害性も見えているはずがない。その「見えていない」ことを描くには、主人公本人ではない他者の視点の導入が不可欠だっただろうし、もし主人公本人の自覚として語らせるなら、それ相応の長い伏線や、別の一作となるほどのさまざまな出来事とともに描かれなければならなかっただろう。
すずさんのような愛すべき人物が「見えていない」ままに加害者となっている状況を描くことは、見方によっては、自覚的な加害者を描くよりもはるかに深刻な問いを読者に投げかける。私たちは「見えていない」ままにすでに加害者であり、見ようとして見えるようになることすらその時代の中では不可能なのではないか、というような。
「知らんまま死にたかった」とつぶやく主人公よりも、最後まで「知らんまま」生きてしまう主人公を描かれる方が、そしてその主人公を「知ってしまった」視点で裁かざるをえない立場に置かれる方が、読者に投げかけられるものは重い。太極旗シーンが閉ざしてしまったのは、作品のそういう可能性だった。

チクロの冤罪

化学調味料に対する冤罪といえば、日本では使用禁止になったチクロの発がん性がその後の研究で否定されているということを数年前に知った。海外では禁止されず、ずっと使われてきた国も多い。もし本当に発がん性があればそういう地域でとっくにがん多発のデータが出ているだろうから、話題になっていないということは観察上も発がん性はないと言っていいのだろう。しかし日本ではいまだに使用禁止のままである。
人工甘味料というもの自体、砂糖が手に入りにくかった時代に代用品として重宝されたものではあって、どうしても使わなければいけないというものでもないだろう。ただ、冤罪で市場を追われたまま罪が晴れても名誉回復されず、「あれは間違いでした、すみません」の一言もかけてもらえないチクロの身になってみると、やはりちょっと義憤のようなものが湧いてくる。

チクロといえば、私の祖父がこれでがんになったのではないか、という憶測が母方の親族の間ではもっともらしく語られていた。祖父は五十代で胃がんを発病して死んでいるのだが、家族の思い出話によると、発病するしばらく前に職場からチクロ入り粉末ジュースの大きな缶をもらってきた。他の家族は「不味い」と言ってあまり飲まなかったが、祖父は「なら、わしが飲む」と結局一缶をほとんど一人で飲んでしまった。おそらく1960年代中頃の話である。それから間もなくアメリカでチクロに発がん性があると指摘され、日本でも騒ぎになって使用禁止になった。それが1969年である。そういう出来事の継起の中で、胃がんで父を失ったばかりの家族が「あのチクロが悪かったのかも」「あれで父ちゃんはがんになったのかも」といった方向に推測を進めたのだろう。結果としてその推測は間違っていたことになるが、その心理は何というか、とてもわかりやすい。

何か病気になったり望まない出来事が起きてしまったりした時、身近なところに「原因」を探したくなるのは人類が広く共有している心理なのだろう。その探求心は、時には実際に原因をつきとめ、その後の安全や健康の向上に役立ってきた。しかしその一方で、真の原因とは言えないさまざまな物質や現象や、場合によっては特定の人々を原因と誤認し、無数の冤罪を生み出してもきた。

二十代で非常に珍しいがんにかかってしまった人が、僕のこのがんは不摂生くらいでなれるもんじゃないです、ただただ運が悪かった、というように語っていたのを見たことがある。「ただただ運が悪かった」というのは一見投げやりで非科学的な態度に見える。「運」で片付けていいのか。
しかし、科学や医学の分野で自然と格闘する人たちの発言をいろいろと見てきて、実はこの態度こそが科学的なのだと私は今は理解している。現在の医学では何が原因か全くわからない病気、そもそも原因が特定できそうにない病気はいくらでもある。がんのような病気はほとんどがそうかもしれない。そういう病気に自分や身近な人がなってしまった時、たまたま目についた何かに原因を求め、犯人扱いして冤罪を生み出してしまうのではなく、「ただただ運が悪かった」と受け止めることができるのは、とても科学的で理性的な態度だ。

病気になるには何か必ず原因があるはずだ、という考え方は、チクロのような物質に冤罪を負わせるだけでなく、それを使った人間、つまり病気になった人本人を犯人扱いするような視線も生み出す。病気の人を犯人扱いなんて、と思うかもしれないが、上に出てきた「不摂生」というようなのがそれだ。確かに、煙草と肺がんのように関係が証明されている物質や生活習慣というものはある。しかし同じように煙草を吸っても、誰もが同じように肺がんになるわけではない。そこにはやはり、生まれ持った体質などの「運」の要素がある。それにもかかわらず、がんになったりするとその途端、「不摂生」をしていたからだ、とそれまでの生活習慣を批判されたりする。二十代でがんになった人が、「不摂生くらいでなれるもんじゃない」と言うのはそういう視線に対する辛辣な牽制であり、同時に、そういうことをすでにうんざりするほど言われたんだろうなあ、と想像させるものだった。

この「必ず原因があるはずだ」という無意識的な信念とその暴走による「原因」の捏造は、社会学で言われる「公正世界信念」の問題とも似ているように思う。「必ず原因があるはずだ」と考えることも、「良い行動には良い報いが、悪い行動には悪い報いがあるべきだ」と考えることも、それ自体はそこまで問題とは見えない。原因を探求して実際に特定できることもあるし、良い報いを期待して良い行動を取ろうという人が増えて、それで社会が良くなることもあるだろう。生きていく上で有益な信念だからこそ、人間の心理に広く深く根付いているのに違いない。
しかし、現実として、世の中には原因のわからない病気や、何も悪いことをしていないのに遭遇する不幸というものがある。そういう不条理に直面した時、これらの信念はエラーを起こし、実在しない「原因」や「これは自業自得」と納得するための架空の「業」を捏造してしまう。そしてその捏造を根拠に、現に不運で苦しんでいる他人や自分を攻撃してしまう。

チクロの話からずいぶん離れてしまったが、ひとまず結論としては、人は間違う、しかし間違いがわかったら謝って訂正すべきだ、ということで。

「NO MSG」と差別

https://www.buzzfeed.com/jp/wakimatsunaga/ajinomoto-vs-fakenews

このアメリカの「NO MSG」の問題は私は最近まで知らなかった。知ってみると、環境問題などに触発された科学不信や「自然」志向と、アジアへの差別的な視線が連動したとても考えさせられる現象だった。
この記事でも説明されているように、MSGを最初に開発し商品化したのは日本人なのだが、それが「中華料理店シンドローム」として中華系移民のバッシングにつながったあたりも複雑な気分になる。

日本でも、味の素は「食べると頭がよくなる」というようにもてはやされた時代から、一転して「体に悪い」「手抜きだ」と叩かれるようになり、いまだに「化学調味料」として嫌われる風潮は続いている。「味の素など使わず出汁を取る」ことが良い妻、良い母の象徴のように言われて、食事を作る女性に余計なストレスをかけたりもしている。そもそも大量の昆布をぐつぐつ煮詰めて発見されたのがグルタミン酸で、昆布で出汁をとるのと味の素を入れるのは結果的にはあまり違わないはずなのだが。
(自分の好みで昆布出汁を取るのは全く問題ないと思います。みんな味の素を使えと言っているのでもありません。問題は、時間短縮や効率や別の好みで味の素を使っている女性に、「そんなものを使うなんて手抜きだ」と説教するようなバカが日本にはまだうじゃうじゃいるということです。)

以下、引用。

"科学的には、グルタミン酸ナトリウムを常識的に食べる量であれば安全とされています(食品安全委員会の資料「食べ物の基礎知識」参照)。

味覚障害を引き起こすとの説も、後述しますが根拠はあやふや。あり得ない、という見方が科学者の大勢です。なのに、消費者の中には嫌う人が多い。その現象は世界で見られ、アメリカでもno-MSGとパッケージに大きく書いた食品が売られています。どうして誤解されているのでしょうか?"

"さらに印象に残ったのは「アメリカ人のno-MSGという意識の裏側にはレイシズム(人種差別)があるのでは?」という指摘でした。

つまり、「アジアから来たわけのわからない調味料なんて、食べてもろくなことにならないに決まっている」という人種差別、偏見があった、とアメリカ人自身が言うのです。"

"アメリカにおけるMSGの歴史も紹介されました。味の素は1909年の創業ですが、1920年代にはアメリカへの輸出を始めています。

しかし、アメリカ社会に一気に普及したのは、第二次世界大戦後。陸軍が、兵隊たちに配る缶詰の食品、いわゆる「ミリメシ」の不評に困り、改善策を模索した中で浮上したのがMSGでした。MSG使用により味が劇的によくなったのです。その後、市販の加工食品や外食でも使われるようになります。

ところが、1968年、大事件が勃発します。アメリカの医師が、MSGを大量に食べたことが原因で頭痛や顔のほてりなどが起きたとして、「中華料理店シンドローム」と名付けて権威ある学術誌「New England Journal of Medicine」で報告したのです。

これを契機に、MSGの評判は一気に下降。動物の腹腔にMSGを大量に注射するような無理な実験で出た症状も、MSGは悪い、とする根拠となりました。

その後、多くの実験・研究が行われ、1987年にはFAO/WHO合同食品添加物専門家会議(JECFA)が安全だと認め、EUアメリカ食品医薬品局(FDA)なども同様の判断を示しました。しかし、風評は収まらず今に至っています。"