『この世界の片隅に』の太極旗シーン

この作品については賛否どちらの立場からもあれこれ言い尽くされていて自分で何か言う気が失せるのだが、このシンプルな指摘については「まあそうだよね」と思ったのでメモ。(ちなみに私はマンガは読んだがアニメはまだ見ていない。)

この世界の片隅に』の太極旗シーンに感じる違和感を整理してみた
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/08/10/125958

"そもそも(広島にも呉にもたくさんいたはずの)朝鮮人など影も形も現れないこの作品で、旗ひとつを見ただけで、朝鮮人を暴力で従え痛めつけてきた「この国の正体」を悟るというのが唐突すぎる。"

"日本人が植民地の朝鮮半島でどんな酷いことをしていたか、おそらくすずさんは何も知らないはずなのに、そのすずさんから「暴力で従え取ったいうことかね。だから暴力に屈せんといかんのかね。」というセリフがなぜ出てくるのか、理解に苦しみました。"(ツイッターからの引用)

この作品の太極旗シーンが「取って付けたようだった」というのは私もそうとしか思えない。作者が持つに至った日本の加害性への認識を、強引に主人公に語らせてしまったがゆえの破綻だ。
この作品は基本的に、当時の庶民(それもかなりナイーヴな人物)の、戦争の帰結も、その背後にある構造も「見えていない」視点に寄り添って描かれている。当然、日本の植民地支配の現実も、その一端に連なっている自身の加害性も見えているはずがない。その「見えていない」ことを描くには、主人公本人ではない他者の視点の導入が不可欠だっただろうし、もし主人公本人の自覚として語らせるなら、それ相応の長い伏線や、別の一作となるほどのさまざまな出来事とともに描かれなければならなかっただろう。
すずさんのような愛すべき人物が「見えていない」ままに加害者となっている状況を描くことは、見方によっては、自覚的な加害者を描くよりもはるかに深刻な問いを読者に投げかける。私たちは「見えていない」ままにすでに加害者であり、見ようとして見えるようになることすらその時代の中では不可能なのではないか、というような。
「知らんまま死にたかった」とつぶやく主人公よりも、最後まで「知らんまま」生きてしまう主人公を描かれる方が、そしてその主人公を「知ってしまった」視点で裁かざるをえない立場に置かれる方が、読者に投げかけられるものは重い。太極旗シーンが閉ざしてしまったのは、作品のそういう可能性だった。