「オルタナティブな場」からの告発に触れて

みわよしこさんの文章。的確でバランスのとれた見方だと思った。

https://note.com/3rings/n/n73b34d53439b

"人が集まれば必ず、この種の問題は起こる可能性がある"

全く、これに尽きるだろう。

さらに言えば、暴力や搾取について一般社会よりも敏感な人が集まりやすかったり、そういうことを批判的に見るような雰囲気が「オルタナティブな場」にあったりするからこそ、告発が起きる機会も増える、という見方もできる。それは決して悪いことではない。
もちろん暴力や搾取自体は悪いのだが、それが被害者にすらそれとして認識されない状況(そういうこともよくある)や、全く表に出てこない状況よりはましなのだ。女性の地位が高い国の方がデータ上は性暴力の発生率が高くなるというのに似ている。被害者が被害を自覚でき、告発できるような条件が最低限あってこそ、「事件」は発生する。

筆者は、

違和感はありますが、「べてるの家」の歩みと実績は、8割方は尊敬しています

と書いている。
私の「べてるの家」に対する感情もこれに近い。といっても、私は本や映像を通して知っただけで、現地を訪れたこともなく、関係者と直接の面識もないのだが。
ただ、筆者の違和感が「言語化することは困難」とされているのに対し、私の違和感はある程度言語化できるようにも思う。たとえば、家族的共同体の匂いがすること。またそれに伴って、「家族」の価値や主流の性規範のようなものがあまり批判なく共有されているように見えること、など。それは私のように強固な反家族主義者で、性の捉え方においてマジョリティではない人間にとってはかなりストレスになるものだ。
しかしそれを「べてるの家」に言ってもないものねだりだろうとも思ってきた。いわば「普通の家族」の安定性のようなものが、苛酷な経験に疲れた人にとって寄り所になることはあるだろう。そういう人が現実として多いのなら、それを否定することはできない。
人間の多様性を認めればこそ、あらゆる人間にとって違和感のない場というものはありえない。「べてるの家」は確かにさまざまな人を排除してきただろうが、うまくなじめた人にとっては必要な場だった。それは否定できない。自分が行って住みたいとは思えないが、その試みには外から敬意を持つ。「べてるの家」は私から見てもそういう場だった。
しかし、この文章でも指摘されているように、時代が変わり組織が拡大していけば、気心の知れた「家族的」な関係で続けていくことに無理が出てくる、というのもまた普遍的な問題だと思う。私も筆者と同じく、「べてるの家」がこれを機にその問題を見直し、より多くの人にとって開かれた集団になっていくことを期待している。