コメントにお返事を書きました

前回の記事について、こちらのコメントにお返事を書きました

https://anond.hatelabo.jp/20210308122131


元記事を書いた者です。丁寧なコメントをありがとう。

私は確かにイギリスの事情とか世論の雰囲気とかを直接体験していないので、自分の日本での経験をもとにイシグロ発言を批判してあちこちずれていたかもしれない。

トランプ当選がリベラルにとって「驚き」だったというのはそうだったのだろう。その実感はよくわからないけれど。
日本のリベラル(というよりここは左翼)の一人として言うと、なにしろ「勝利ムード」なんて味わった記憶がほとんどないんだよね。「ネットで見た印象より自民党の支持率が高い、なんで!?」と驚く左翼の人もいるのかもしれないけど、少なくとも私はそういう驚き方をしたことはない。自民党の支持率が高い、そうかやっぱりね。自分の投票した左派候補が僅差で選挙区で勝った、え、なんで!?という感じ。
社会党とかが強かった時代を知っている世代はまた違うかもしれないけど、ある程度若い世代で左翼をやってると、とにかく負けるのが常態という感覚がしみついている。「われわれは負け続けるが、それでも闘うことに意味があるのだ」みたいなことを事あるごとに聞かされて育ってきた感じ。それで、要は期待値がかなり低くなっている。少なくとも私個人は。

だから非リベラル的な意見や表現に出会っても、それで非常に不愉快になるとかかっとするとか、そういう感情はあまり湧いてこない。単に性格もあるけれど、それが当たり前、そっちが世間の主流、という慣れ、諦めがあるような気がする。これは「自分は頑迷で怒りっぽいリベラルとは違うぞ」というようなことを言いたいわけではなく、単に事実として。だから非リベラルの人の話に淡々と耳を傾けることならできそうだし、これまでも機会があればしてきたつもり。
実際、記事に書いたように普通に生活していれば周囲にはいくらでも左翼やリベラルでない人がいるわけで、日常では当然かれらと人間としてつきあう。日本社会はそもそも政治的な話をする機会が少ないけれど、そういう人が非リベラル的な意見を伝えてきたとして、私はもちろん隣人として耳を傾けると思う。

特に私は育った家族が保守やノンポリばかりで、自分も十代の半ばまではその価値観の中にいたから、非リベラルの感じ方考え方はかなり内在的にわかる気がしている。これももちろん、「お前らのことなんかわかってるぞ」と上に立ちたいわけではなく、単に事実として。
ただこの経験は、私の中に保守への理解だけでなく、たしかに一種の被害者意識を植え付けたかもしれない。なにしろ、ちょっと左翼っぽい活動に参加しはじめたら、「お前は過激派に洗脳されている」、「そのうち山奥に埋められるぞ」(あさま山荘事件のことね)、「警察に通報するぞ」等々と親に罵倒され泣きわめかれた。その後も長年、「お前は洗脳されている、そんなものに関わると人生台無し」とからんでくる親に、「私はあなたの思想を尊重して干渉しませんから、あなたもどうか干渉しないでください」とリベラルの原則を盾に応対し続けた。だから考えの違う相手への忍耐力はそこそこついたかもしれないが、残念ながら、その分保守や非リベラルのイメージがどうしても悪くなり、被害者意識的なものが刷り込まれてしまった感は否めない。

まあそれと、有名な在特会などが「虐殺せよ」だのと街頭で叫ぶのを何度も目の当たりにして、これを放置はなあ……とやはり考えさせられたよね。私は実は上に書いたように感情麻痺気味なところがあって、そこまで強い恐怖や怒りを感じたわけではないのだけれど、寝込むくらいのショックを受ける人も当然出る。あれでヘイトスピーチ規制やむなし、と確信した人は多かったと思う。私はそれでもあいまいに慎重派で、ちらほらそういう人もいるのだけれど、流れとしては法規制論はかれら「行動保守」が自ら火をつけた面があると思う。

相手をモンスター化するな、というのはたしかに大切なこと。相手がたとえ桜井誠であっても、もちろん人権を保障された人間として向き合うべきだ。
このへんも、個人的には「桜井相手なら何を言ってもいい」みたいなカウンター側の暴言を身辺で諌めたり、なるべく意識してきたつもりではいる。もちろん私だけではなく、そういう人はカウンターに参加した左翼やリベラルの中にたくさんいた。 
一方でカウンター側の一部に「お前らのそれも差別だろう」と言われてもしかたのない言動があったのも事実。それは否定しない。でも保守や非リベラルがそうであるように、左翼もリベラルもカウンター参加者も全く一枚岩ではないので……参加者全員連帯責任のように見られるとちょっときつい。

「愛国アレルギー」については、日本国内で外国人の権利擁護運動をする際にはかれらがもつ愛国心ナショナリズムも含めて尊重すべき場面も多く、「愛国」=悪!と単純に攻撃できるような機会は私の周りには現実的にない。
ただし私個人は基本的に反ナショナリストなので、私が「愛国」的なものの共有を求められる場面があればなるべく拒否したいと思っている。これはまさに思想信条の自由の問題で、リベラルとしても簡単に譲っていいところではない。
具体的には、学校での日の丸君が代の強制などに対して、見たくない、歌いたくない人の「強制されない自由」をどう保障していくかということ。現状、生徒ならまだしも教員だと拒否が処分につながったりして、この自由はかなり圧迫されているというしかない。これは国家が個人の行動を直接規制する話だから左翼案件というよりかなりリベラリズム案件だと思うのだけれど、何だか古くさい左翼運動のように見られるのは残念だと思う。

そういう国家による直接の規制に比べると、民間の芸術家が「愛国」的な作品を作るかどうかとかは個人的にはそこまで気にならない。それが教科書に載るとかだとまた少し話が変わるかもしれないけど。
挙げられていたHINOMARUの件についても当時からほとんど興味がなく、特に発言などした覚えもない。後でざっと経緯は知ったが、曲を廃盤にしろとか歌うなとかいう主張は(私のリベラルの立場からして)支持できないかな、でもそれを主張するのもそれはそれで表現の自由だよな、といったところ。謝り方がどうだとかそのへんはもう知らん。制止しなかったならお前も同じだ、とか言う人もいるのかもしれないが、さすがにそれは勘弁してほしい。左翼も別に集合知性体ではないので。


急ぎ足で書いたけれど、ひとまずコメントの大きな方向としての、思想は違っても人間同士として理解の余地があるよね、というところには基本的に同意です。それはお互いに、どんな立場であれそうですよね。とにかく丁寧に応答していただきありがとうございました。