チクロの冤罪

化学調味料に対する冤罪といえば、日本では使用禁止になったチクロの発がん性がその後の研究で否定されているということを数年前に知った。海外では禁止されず、ずっと使われてきた国も多い。もし本当に発がん性があればそういう地域でとっくにがん多発のデータが出ているだろうから、話題になっていないということは観察上も発がん性はないと言っていいのだろう。しかし日本ではいまだに使用禁止のままである。
人工甘味料というもの自体、砂糖が手に入りにくかった時代に代用品として重宝されたものではあって、どうしても使わなければいけないというものでもないだろう。ただ、冤罪で市場を追われたまま罪が晴れても名誉回復されず、「あれは間違いでした、すみません」の一言もかけてもらえないチクロの身になってみると、やはりちょっと義憤のようなものが湧いてくる。

チクロといえば、私の祖父がこれでがんになったのではないか、という憶測が母方の親族の間ではもっともらしく語られていた。祖父は五十代で胃がんを発病して死んでいるのだが、家族の思い出話によると、発病するしばらく前に職場からチクロ入り粉末ジュースの大きな缶をもらってきた。他の家族は「不味い」と言ってあまり飲まなかったが、祖父は「なら、わしが飲む」と結局一缶をほとんど一人で飲んでしまった。おそらく1960年代中頃の話である。それから間もなくアメリカでチクロに発がん性があると指摘され、日本でも騒ぎになって使用禁止になった。それが1969年である。そういう出来事の継起の中で、胃がんで父を失ったばかりの家族が「あのチクロが悪かったのかも」「あれで父ちゃんはがんになったのかも」といった方向に推測を進めたのだろう。結果としてその推測は間違っていたことになるが、その心理は何というか、とてもわかりやすい。

何か病気になったり望まない出来事が起きてしまったりした時、身近なところに「原因」を探したくなるのは人類が広く共有している心理なのだろう。その探求心は、時には実際に原因をつきとめ、その後の安全や健康の向上に役立ってきた。しかしその一方で、真の原因とは言えないさまざまな物質や現象や、場合によっては特定の人々を原因と誤認し、無数の冤罪を生み出してもきた。

二十代で非常に珍しいがんにかかってしまった人が、僕のこのがんは不摂生くらいでなれるもんじゃないです、ただただ運が悪かった、というように語っていたのを見たことがある。「ただただ運が悪かった」というのは一見投げやりで非科学的な態度に見える。「運」で片付けていいのか。
しかし、科学や医学の分野で自然と格闘する人たちの発言をいろいろと見てきて、実はこの態度こそが科学的なのだと私は今は理解している。現在の医学では何が原因か全くわからない病気、そもそも原因が特定できそうにない病気はいくらでもある。がんのような病気はほとんどがそうかもしれない。そういう病気に自分や身近な人がなってしまった時、たまたま目についた何かに原因を求め、犯人扱いして冤罪を生み出してしまうのではなく、「ただただ運が悪かった」と受け止めることができるのは、とても科学的で理性的な態度だ。

病気になるには何か必ず原因があるはずだ、という考え方は、チクロのような物質に冤罪を負わせるだけでなく、それを使った人間、つまり病気になった人本人を犯人扱いするような視線も生み出す。病気の人を犯人扱いなんて、と思うかもしれないが、上に出てきた「不摂生」というようなのがそれだ。確かに、煙草と肺がんのように関係が証明されている物質や生活習慣というものはある。しかし同じように煙草を吸っても、誰もが同じように肺がんになるわけではない。そこにはやはり、生まれ持った体質などの「運」の要素がある。それにもかかわらず、がんになったりするとその途端、「不摂生」をしていたからだ、とそれまでの生活習慣を批判されたりする。二十代でがんになった人が、「不摂生くらいでなれるもんじゃない」と言うのはそういう視線に対する辛辣な牽制であり、同時に、そういうことをすでにうんざりするほど言われたんだろうなあ、と想像させるものだった。

この「必ず原因があるはずだ」という無意識的な信念とその暴走による「原因」の捏造は、社会学で言われる「公正世界信念」の問題とも似ているように思う。「必ず原因があるはずだ」と考えることも、「良い行動には良い報いが、悪い行動には悪い報いがあるべきだ」と考えることも、それ自体はそこまで問題とは見えない。原因を探求して実際に特定できることもあるし、良い報いを期待して良い行動を取ろうという人が増えて、それで社会が良くなることもあるだろう。生きていく上で有益な信念だからこそ、人間の心理に広く深く根付いているのに違いない。
しかし、現実として、世の中には原因のわからない病気や、何も悪いことをしていないのに遭遇する不幸というものがある。そういう不条理に直面した時、これらの信念はエラーを起こし、実在しない「原因」や「これは自業自得」と納得するための架空の「業」を捏造してしまう。そしてその捏造を根拠に、現に不運で苦しんでいる他人や自分を攻撃してしまう。

チクロの話からずいぶん離れてしまったが、ひとまず結論としては、人は間違う、しかし間違いがわかったら謝って訂正すべきだ、ということで。